沖縄って薩摩侵略とか米軍との陸上戦とか激しい戦火にさらされたこともあるけど、それ以前の琉球王朝の時って『平和の島』ってイメージがありますよね。
でも、実際はそんな事もないみたいですよ。
今日は、読谷にある『阿麻和利(あまわり)の墓』から知った琉球の歴史について書いていきます。
阿麻和利がどんな人かというと、沖縄の演劇でよく出てくる悪役みたいです。
阿麻和利の歴史
目次
勝連城主への道
昔々560年ほど前、勝連では茂知附(もちづき)按司という人がいました。
按司というのは称号や位のような物で、王子の次に偉い人だそうですが、彼はひどい悪政を働いていたため領民は苦しんでいたそうです。
そんな中立ち上がった人がいました。
彼の名前が『阿麻和利』
知恵者である彼は民衆の心をつかみ、みごと茂知附を倒すことが出来た彼は茂知附に代わり勝連の地を治めることになります。
その後、蜘蛛の巣から漁網を考案したり、勝連半島の地の利を利用した貿易で阿麻和利は莫大な富を得ました。
しかし、勝連のような地方が力を持つことに危機を覚えた琉球の王、尚泰ある久王(しょう たいきゅうおう)は自分の娘である百度踏揚(ももふみあがり)を彼のもとに嫁がせコントロールしようとします。
ところが、王の娘を元においたことで、勝連はますます発展していくのでした。
護佐丸・阿麻和利の乱
そんな中、恩納村の護佐丸(ごさまる)という武将が王朝に歯向かおうとしてるという噂が出てきました。
王の命を受け阿麻和利は彼を打とうと向かいます。
しかし、実際は護佐丸に謀反の意思はなく、抵抗せずに自死してしまいました。
護佐丸を倒したことで阿麻和利は調子に乗り、王の尚泰久王を討とうとしますが、妻で王の娘である百度踏揚に告げ口されてしまい、読谷まで追い詰められ打たれてしまうのでした。

残された歴史
今残っている主な記録は琉球王朝の正史として残っているものなので、実際の歴史がどうであったのかはわかりません。
実際『護佐丸・阿麻和利の乱』あたりからこれけっこう無理あるんじゃない?
って内容ですよね?
正義、悪なんてのも結局生き残ったほうが残した歴史で変わるもの。
最近研究されている勝連の歴史では英雄として記されているみたいですよ。
肝高の阿麻和利
阿麻和利の歴史についてはけっこう不明なことも多く、いろんな視点からの解釈がなされています。
特に現代版組踊と称される舞台『肝高の阿麻和利』が沖縄県うるま市の中高生によって公演されています。
中高生といって侮るなかれ、けっこう歴史ある舞台で、2009年には日本ユネスコ協会連盟に『第一回プロジェクト未来遺産』として指定されています。
公演は今でも行っているので良かったら見にいてみてはいかがでしょうか?
値段は
大人(R)¥2800
¥2500
子供 ¥2000
お墓の場所はこちら
まぁ実際何が起きたかなんて、タイムマシンでもないとわからないものです。
わからないからこそ残されたものを見て、感じて、思う事が面白かったりするんですよね。
阿麻和利の墓は、58号線を北上して、伊良皆交差点を左に曲がり、少し行くと『Joie Joie326』というCAFEが見えて来ます。
そこを左に曲がり100mほど行くと、右手に見えてくるのが彼の墓です。