どうもタケシコです。
僕が友人から借りて読んだ人類学の本が面白かったので勝手に解釈してみました。
レヴィストロース講義ってやつ。
※勝手な解釈なので僕の発言には一切責任を持ちません。つまり、僕はこの本の半分以上理解出来ておりません。
まず人類学とは。
僕の解釈では
それぞれの集団(国とか宗教とか文化とか)に無意識のうちに根づいた心理的な現象を理解するというもの。
例えば、ヨーロッパの人達の教育や文化はシェイクスピアとキリスト教が根底にあって彼らのアイデンティティーの確立に何かしらの影響を与えているというもの
さらに例えるならば
「俺は無宗教だ」
と言うヨーロピアンがいても、彼の考え方のクセにキリスト教が根づいている可能性が大いにあるという事。
日本人の精神の根底に神道と仏教があって、無宗教の現代人にも無意識のうちにしっかり刻み込まれているというのと一緒ですな。
宗教と文化は切っても切れないですからね。
んで、そのそれぞれの集団の差異を見つけて人間の普遍の特性を見つけていこうという試みをしているのが人類学みたい
とんでもなくないですか人類学?
まあ余興はここら辺にして
あ
今までのは余興です。
忘れてください。
この本で面白いのを見つけた。
欧米の精神は遠心的運動である事に対し、日本の精神は求心的運動である。
これだけだとなんのこっちゃ分からんので
もっと簡潔に言うと
日本人の意識は外部から自分の方に向いているらしい
んで欧米人の意識は自分の方から外部に向いているらしい
例えば、日本語の油を「揚げる」
ヨーロッパの言葉では油に「沈める」と言うらしい。
日本は油から「揚げる」→持ち「上げる」
意識が外側から自分の方へ向いている
ヨーロッパの油に「沈める」
沈めるという動作を考えたら分かるが
意識が内側(自分の方)から外側に向いている
他の例をあげよう
日本の大工はノコギリやカンナを手前にひくときに作業する
外側から内側(自分の方)にだ
しかし
西欧では向こうへ押し出すときに切ったり削ったりするらしい
内側(自分の方)から外側にだ
人類学はこうした些細で偶然だと思われる事実を特殊事例と考えずにそこに見いだされる「共通性」に注目をするそうだ。
んでさらに書いてあったこと
「日本人はあたかも自らの「自我」を、外部から出発して構成するかのようです」
外部から自分(内側)に
僕はこれを読んで妙に納得した
ニュージーランドの最初の頃
僕は周りの欧米人に合わせていた
彼らがこうしたいというなら、僕もそれに合わせて、
ああしたいというなら僕もそれに従った
何故なら、そっちの方がその場が丸く収まると思っていたからだ
結構海外にいてそういうタイプの日本人は多いと思う。
しかし
僕はそれでいいと思う。
周りの空気を見て自分が次に何をすれば最善かを考えるということでしょう。
人類学的にいうと
日本人特有の
外側から自分(内側)へ意識が向いているということでしょう。
外側の様子を見て内側(自分)の行動を決めるということ
いいじゃないですか
それが和の心じゃないでしょうか。
僕が21歳の頃、フランス人の女の子に言われた事がある
「あんた、どこ行きたいわけ??いつも私が決めてるじゃない!自分の意見を言いなさいよ!」
僕はその時、シュンッとなって何も言えなかった
そしてその子にはフラレた
僕は思った。
あの時
「キミが行きたい所がボクの行きたい所さ。何故ならボクの自我の一部はキミというものが作りあげているからね」
って言って、この本を渡せば
向こう
キュンッ
ってなっていたんじゃないか?
まあ
でも
あまりにも周りに合わせすぎるとストレスが溜まるので
バランスですね。
ヤジロベーみたいにね。